当店を作り上げた前代表の言葉
私の故郷、尾道市御調町。 思い出は、彩り鮮やかな秋の風景と、 柿づくりに励む大人たちの姿でした。
私はこの里山で生まれ育ちました。 子どもの頃は、近所の幼なじみたちと一日中、この里山を走り回っていました。 鬼ごっこや泥んこ遊びをしたり、虫を追っかけたり。 調子に乗って、仲間たちといたずらして大人たちに叱られたり(笑)。 毎日が本当に楽しかった。 当時、この地で育った柿の実を使って干し柿をつくる農家でした。 特に取り組んでいたのは、 「串柿」という正月の鏡餅などに縁起物として供える飾り物の製造。 関西圏を中心に全国から注文が殺到するほどの、江戸時代から約370年以上続く、 尾道市御調町の一大特産品です。 串柿づくりのピークは秋。 青く澄み渡った秋空と、紅葉に染まった中、軒先や庭先に、串刺しされたオレンジ色の 「柿の実」のカーテンがズラリと並びます。息をのむような美しい風景でした。 〝柿の里〟と呼ばれるにふさわしいこの風景を見るために、 多くの観光客や写真家、マスコミが訪れる光景も、秋の風物詩のひとつ。 大人たちの笑顔と誇り、そして活気があふれていた姿が印象に残っています。
故郷を離れて気づいた、 尾道市御調町の干し柿の魅力。 残りの人生を捧げる決意へ。
私も中学生、高校生となり、都会の生活に憧れはじめました。 そうしてこの地を離れたのは、高校を卒業したとき。 大学に進学し、そのまま都会で就職し、 この故郷から遠く離れた町で家庭を築きました。 人並みな幸せを手にしましたが、年齢を重ねるごとに募らせたのは故郷への思い。 都会で売られている干し柿を食べるたびに、 「故郷の干し柿のおいしさは特別だったんだ」と気づかされました。 しかし、実家に帰省するたびに、 あの活気あふれた「串柿づくり」の風景から少しずつ元気が失われていました。 正月の鏡餅の飾りつけという日本文化に対する生活観の変化が大きな原因でしょう。 尾道市御調町で干し柿を生産する農家は1970年代には約150戸あったのが、 2010年頃には8戸にまで減少していました。 その流れは遂に私の実家にまで及び、両親は「串柿づくり」をやめることになりました。 私は悩みました。 なんとかしたかった。
故郷を思う仲間たちが集結。 干し柿、柿酢、渋柿、柿のドライフルーツなど この里山の〝柿文化〟を全国へ。
江戸時代から続く〝伝説の柿の里〟を復活させ、 子どもの頃に見ていたあの風景を、もう一度取り戻したい。 思い切って会社を退職し、37年ぶりに故郷に戻ることにしました。 55歳のときのことでした。 故郷に戻ると、まずはこの里山を練り歩きました。すると、3000本もの柿の木が残っていました。 そのほとんどは、樹齢100年を超えるであろう立派なものばかり。 干し柿を作る文化は衰退しても、この里山には、多くの柿の木が残り続けていたんですね。 残り続けたのは、柿の木だけではありません。 私と同様、故郷を思う幼なじみたちの存在でした。 そうして、かつて里山を駆け巡っていた悪ガキの仲間たちとともに 「株式会社 尾道柿園」を設立。 柿の木を剪定したり、新たに柿の木を植えしたりするなど里山を整備し、 再び活気あふれる〝柿の里〟を復興する活動をスタートさせました。
前代表 宗 康司